2021年4月25日、今朝の1枚
3度めの緊急事態宣言が発表された大阪。1年経って何も進めれない行政にウンザリしながら気分を晴らすのに今朝はこのアルバムにした。
AIRTO MOREIRA『FINGERS』1973年4月録音
クラブ・ジャズを聴き始めてから知ったミュージシャン
1993年頃 クラブ・ジャズに関わりだした時にダンスフロアのキラーチューン曲としてかかってたのが、このアルバムのラスト曲「TOMBO IN 7/4」
初めて聴いたとき、一発で魂を持っていかれた。
199年代後半にはドイツのベリーニが「TOMBO IN 7/4」カバーした「サンバ・de・ジャネイロ」がサッカー人気と重なってラジオなどからガンガンかかっていた。
この時には『FINGERS』はCD化されてなかったので、DJたちはLPを探しまわり中古盤屋でもビックリするような値段が着いていた。
とにもかくにも「TOMBO IN 7/4」という曲がアイアートの代表曲となっていて、ジャズとロックとファンクのクロスオーバーにとどまらず、ラテン・ミュージックまでも融合した1曲と言える。
4分の7拍子という狂ったようなリズムが洪水のように押し寄せ、スキャットのような雄叫びヴォーカルは多分アイアートの唄声。サビの合唱に入る頃にはあらゆる打楽器が叩きまくられ、サンバ・ホイッスルが吹き鳴らされる中そのまま間奏になり問答無用のサンバ・グルーブでハイテンションに持っていかれる6分間。
フュージョン界の、キー・ミュージシャン。
前にも書いたが、高校2年生にとって『リターン・トゥ・フォーエヴァー』が名盤中の名盤だと言われて聴いてはみたけど・・・、何を持って名盤と言われるのかはピンとこなかった。以来ほとんど聞くことのなかったアルバムだったけど、アイアートとフローラ夫婦がバンドReturn To Foreverに起用されたミュージシャンだと知って改めて聴き直した。フローラ・プリムの唄をフィーチャーした「What Game Shall We Play Today」は、シングルカットできそうなキャッチーな曲だったし、正確無比だけど何故かグルーブ感のあるドラムの音などが違って聴こえてきた。
チック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエヴァー』は1972年2月2,3日に
NYのA&R Sutuduioでレコーディングされ『FINGERS』は1973年4月のレコーディングで、StudioはNYの隣のRudy Van Gelder Studio。
1941年生まれなので、1972年は31歳。この頃が一番脂の乗ったいい時期だったんだと思う。
15歳からプロミュージシャンとして活動を初めて1968年に夫人のフローラ・プリムと一緒にアメリカに進出。2年後にはマイルス・デイビスのグループに参加していたので、腕の良さはすぐにNYのギョウカイ内に広まったんだろうと思う。
1970年代のフュージョンシーンの台頭を切り開いたのが【マイルス・デイビス】、【ウエザー・リポート】、【リターン・トゥ・フォーエヴァー】の3組だと言われている。
この3組のメンバーは、基本マイルス・バンドのメンバーを中心に重なるが、この3組全てに在籍したミュージシャンがアイアート・モレイラだ。
マイルスのアルバムでは『ビッチェズ・ブリュー』から参加し、ウエザー・リポート、リターン・トゥ・フォーエヴァーでは立ち上げメンバーとして名を連ねている
。皆がアイアートを必要としたのは、アイアートの持つ本物のラテングルーブ、ブラジルのリズムだったんだろう。このあたりは練習で習得できるものではなく、血というか感性というか生きてきた世界からしか生まれないのだろう。
AIRTOは日本ではアイアートと呼ぶけどブラジルではアイールト、英語だとエアートと呼ばれていて、70年代のアイアートは自己紹介で「アイ(目)・イヤー(耳)・トウ(爪先)」などと名乗ってた時期もある。
このシャレはアメリカ的? ブラジル的? 受けてたのかどうかは定かではない(笑)
最後にこのアルバムのジャケットは1回見ると忘れられないくらい強烈なインパクトを持って迫ってくる写真だ。血に染まった? 真っ赤な手のひらの真ん中に今飛び出さんばかりのハエが1匹写っている。このジャケットセンスは素晴らしい。
“ブラジル人の血が、その手を通して生み出したグルーブが詰まっているアルバム”という意味なんだろうか・・・。
どんよりしたニュースばかりなので、ハイテンションな曲でも聴いて気分上げていこう!