ノスタル爺の話 #3
尾崎豊のデビュー
1983年の年末と言えば、想い出されるのは尾崎豊。シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』で高校在学中にデビューした。
この頃のアルバムに共通してるのは、出来の良いのも・悪いのもあるけど帯にキャッチコピーが書かれてること。
このデビューアルバムには、
「おとなの目を通した言葉なんて僕は信じない 僕は僕の言葉でこの瞬間を歌いたい」と書かれてる。
でも、これだけでは 見たことも聴いたこともない新人のアルバムの良さを伝えるには、無理があったと思う。
オレではなく“僕”という一人称、“お前ら”ではなく、“おとな”とか、言葉が優しいというか上品というか良い子が唄ってる印象だった。
チョット悪ぶった17歳の兄ちゃんの歌というくらいにしか読み取れない。
レアなプロモーション用パンフレット、持っておけばよかった。
多分プロデューサーや宣伝担当の人も伝わりづらさはわかってたようで、お金をかけた特製のプロモーション用パンフレットを作りサンプル盤と一緒に配ってた。
そのパンフの裏表紙には本人による曲解説が掲載されている。
まだ何処かに持ってるか? と思って探したけど我が家にはもう存在してなかった。ヤフオクでは売ってます(2020年7月18日現在)
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/k390746077
※写真はヤフオクから拝借。結構ゴイスな値段でクリビツ(*_*)
しかしバーンとは売れず、どちらかというと評判はそんなに良くなく、サンプル盤も結構送り返されたりしてた。
当時のギョウカイでは、サウンドクリエーターの鈴置さんがKBS京都のラジオ番組でかけまくってるアーティストというので有名でした。
CBSソニーイチオシの17歳のアーティストはどんなのか? サンプル盤をもらって聴いてみた。
すごく共感できる歌詞に耳に残るメロディ、自由とか愛とか こっ恥ずかしい言葉が並んでるが、彼が唄うと自然に聴こえる。
でも、歌番組に出るようなタイプでもなさそうだし、売れるには時間かかるんだろうなと思ってた。
(1984年)夏になって日比谷野音で演奏中、高さ7mの照明イントレによじ登り、そこから飛び降りて左足を骨折。
一旦ステージ裏にはけたが、病院には行かず再びステージを続行し、最後はステージに這いつくばって激痛に耐えて予定していた曲を歌い切ったのが伝説になって売れ始めた。
左踵骨圧迫骨折で全治3カ月の診断。退院後は松葉杖での生活が続き、ギブスが取れたのは11月下旬、ボルトを抜いたのは翌年(1985年)2月だったという。
歌番組ではなく、過激なステージングでもなく、歌うことへの執念のようなもの。
アルバムやプロモーション・パンフレットでは表現されてなかった、いわば“根性”とも言える尾崎の生き様が注目を浴びて売れだした。
後日何処かの雑誌で当時の事務所の社長のコメントが掲載されていて、初めて尾崎に逢った時に彼の手についていたタバコの根性焼きの跡を見て契約を決めたと知り妙に納得した。
僕にとっては尾崎と言えば、東京タワーの置物のように「根性」という言葉がすぐ側にある。
最初で最後の尾崎を見た、大阪厚生年金会館・中ホールでのファースト・コンサート。
そんな尾崎の「FIRST LIVE CONCERT TOUR」を大阪厚生年金会館中ホールで見ている。
ネットで調べたら日付は1984/12/21 (金) 脚のボルトを抜く前だ。
セットリストは
1.シェリー
2.はじまりさえ歌えない
3.Driving All Night
4.Bow!
5.傷つけた人々へ
6.ドーナツ・ショップ
8.街の風景
10.核
11.卒業
12.Scrap Alley
13.ハイスクールRock'n'Roll
14.Scrambling Rock'n'Roll
15.十七歳の地図
16.愛の消えた街
17.15の夜
アンコール #1:
Freeze Moon
I LOVE YOU
アンコール #2:
想い出すのは、この時のステージは眼がとんでるような感じで、何かに取り付かれたような・追われているような鬼気迫るライブだった。
一緒に行った人に「クスリやってません?」と聞いた覚えが鮮明に残ってるくらいヤバい感じ。
ライブでしか聴けないと言われてた「卒業」を初めて聴いたのもこのコンサート。
イントロのピアノを弾き始めた時にゾクっとして、必死で歌詞を聴き取ろうとした。
本編最後の曲では、照明の隙間から大量の風船が降ってきて、ステージが風船だらけになる演出が印象的だった。
尾崎のコンサートを見たのはコレが最初で最後になった。